橘氏から出た一族。有名なのは楠氏ですが、それ以外も結構あります。
★ 橘保氏
遠保の男。保氏が井筒家祖となる(諸説がある)。正六位下、院判官代。摂河泉三州押領使。井筒の家名は橘ゆかりの井手の堤からの呼名と思われる。この家系から楠氏・和田氏に繋がる。

保氏

氏高

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

諸隆

安基

義範

満影

親延 盛氏 成綱

 

勝尊

 

 

兼行

 

 

俊綱

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俊浄
                     

信氏

氏時

氏吉

                         

氏治

   
★ 橘安基(井筒安基
諸隆の男。井堤切山大夫判官代。また赤坂郡司と号す。子に兼行がある。
★ 橘義範(橘公範)
生没年未詳。康平年間、奥州衣川への遠征に源頼義に申従し軍功をたて、義の字を賜る。この時、源家弓法張子房軍法を伝授される。
★ 橘成綱(楠成綱)
生没年未詳。楠氏始祖といわれている。楠氏の出自については不明な点が多いがここでは、成綱を始祖とする系図纂要を尊重することとした。
文献に楠木氏の名が登場するのは、建久元年(1190)、源頼朝が奥羽平定後上洛した時、随行した武士の中に楠木四郎という名がみえるのが最初である。そのつぎに、永仁3年(1295)正月の大部庄百姓解状、同年閏二月の大部庄百姓等勒状の中に河内楠入道という名前がみえる。
楠成綱 成康─ 成長 成氏 正俊 正澄── 正成─── 正行 多聞丸
 

保正

正貴 信貴正玄 俊親 教正
 

正量

和田正氏 正綱
正季 正時 正常
源秀
正儀
恵秀─── 正秀 正光 恵光 智光
服部元成妻
諸胤── 正胤─── 種長 長國
満俊 正延── 和田正遠 正玄
正言 行遠 正武 泰義 泰連 泰明
行忠 泰基
高貞
正守 正貞── 正資─── 正親
正資
★ 楠正成
南北朝期の武将。兵衛尉・左衛門尉。河内国石川郡赤坂に居館があった。北条得宗家の被官であった可能性が高いが、文観らを通じて後醍醐天皇と結びついたと思われる。元弘元年(1331年)に起こった元弘の乱で、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵するが落城。翌年冬に再度挙兵し、千早城に幕府の大軍をひきつけゲリラ戦法で悩ませた。これらの軍功によって建武政権下で河内国司、河内・和泉両国守護となり、記録所・恩賞方・雑訴決断所などの枢要機関にも参画。建武3年(1336年)2月、関東から上洛した足利尊氏を九州へ敗走させたが、5月に尊氏の東上を摂津国湊川で迎えうって敗死した。知略兵法をもって最も世に著われ、儒学(宋学)等の教養もあった。

 湊川神社と楠正成の墓
★ 楠正行
南北朝期の武将。楠正成の男。帯刀・左衛門尉。父の敗死後、南朝の河内国司兼守護となり、畿内の南朝方軍事力の中心的存在。貞和3年(1347年)8月以降、河内・紀伊で攻勢に転じ幕府の派遣した細川顕氏、ついで山名時氏に大勝。翌年、事態を重視した幕府が高師直・高師泰を河内に向かわせると、河内国四条畷で迎撃し敗れ、弟正時と刺し違えて自害した。出陣直前、如意輪堂壁に梓弓の歌を記した話は著名。
 四条畷神社(楠正行の墓)
★ 平泉寺恵秀(楠正利)
楠正成の弟。後醍醐天皇の命を受けて北陸の平泉寺に入る。最初、河内観心寺で学び平泉寺では恵秀と名乗る。正成死後、楠正利に復名し新田義貞と共に戦い、延元2年(1337年)に藤島の戦い戦死した。
★ 西念寺智光
恵光の男。智光の時に浄土真宗に改宗し、西念寺を創建。織田信長の北陸平定にともない、西念寺の住職らは難を逃れる為に、紀州根来寺の黒田党に庇護を受ける。その後、黒田信濃守定綱が創建した摂津国大仁村王仁山の教願寺の住職となる。
★ 楠満俊(和田親遠)
鎌倉時代の武将。泉州岸城城主。和田和泉守の養子となり、世人からは岸和田殿と言われた。
★ 楠正遠(和田正遠)
南北朝期の武将。正慶元年(1332年)11月楠正成の挙兵に従軍し戦功を挙げた。建武新政下の建武3年(1336)4月、正成とともに武者所五番に詰める。足利尊氏が新政府に叛した際は、正成とともに尊氏を九州に追い落としたが、同年5月25日、摂津・湊川で尊氏軍に敗れ戦死した。大正3年(1914)11月、贈正四位。
★ 和田正武
楠一族。楠正儀と行動を共にし、南朝軍を率いて活躍している。延文5年(1360年)5月、幕府軍の攻撃を正儀と共に河内・赤坂城に篭り防戦した。貞治元年(1362年)には摂津守護代蓑浦俊定を攻め、兵庫に赴いて赤松光範と多部田で交戦した。正儀が北朝に帰順した際にはおおいに憤激し、天野行在所を固守したが利を失い、吉野へ退いた。その晩年は不明。
★ 楠正家
南北朝時代の武将。河内の人。系図には登場せず。楠一族。蔵人・左近将監に任官された。建武3年(1336)2月、常陸国へ赴き、瓜連城を拠点として佐竹義冬・貞義らと戦い破った。このため入野七郎次郎らが来属し、当地域の南朝勢力の確保に努めた。翌年、北畠顕家軍の西上に従軍した。貞和4年(1348)正月、北朝軍の高師直が河内東条を攻めると、正家は正行とともに四条畷に戦ったが敗れ戦死した。
★ 楠正綱
楠正行の男。正行戦死の時、僅か2歳であった。その後、南朝に仕える。左中将。
正綱 正倶 正隆 正理 行康 正俊 成良 正隆 正良 良治 良清
★ 楠正隆
楠正倶の男。従四位上少将。伊勢国神戸に住し、国司の北畠家の外為貴族となる。
★ 楠正理
楠正隆の男。左京大夫。この時南帝は後醍醐天皇の四代孫であったが、赤松氏が謀反し神爾を奪われ帝は崩御する。子の行康はこの時に傷を負い熊野に住むこととなる。
★ 信貴正玄(楠正玄)
生没年未詳。実は橘盛仲の男。盛仲死後、楠正俊の養育を受ける。後に張雲斎と号し、張子房所伝の江家兵法を楠正成幼少の頃教育を行う。
信貴正玄 正意
阿間了願
山本正景 正尹
正英 正富─ 正篤 正秋 正ト 正邑 正孝 正賢 正徳
秀信 富長 正胤 正近
常辰
★ 阿間了願(楠正頼)
楠正玄の男。正和2年(1313年)生まれ。北朝の追手から逃れ、天野山金剛寺に入り剃髪し、了願と名を改め阿間と改姓する。その後、本願寺の覚如上人に帰依し、真宗に改め専宗寺を開く。また、三島郡に移り安満村の淨誓寺、穂積村の慈明寺を創建した。元中4年(1387年)卒す。
★ 山本正景
生没年未詳。信貴正玄の男。泉州大鳥首領菱木越後守と合戦し勝利しその一跡を賜る。その後楠正成の挙兵に参加し、正慶2年(1333年)赤坂城にて戦死。
★ 山本正ト
文安元年(1444年)生まれ。山本正秋の男。山名宗全に属し、泉州大鳥郡・河州石川郡に千貫を賜る。後に畠山義就に属し永正2年(1505年)に卒す。
★ 山本正孝
永正元年(1504年)生まれ。山本正邑の男。畠山義英に属し、享禄5年(1532年)逆臣木澤左京亮の飯森城を攻めた。本願寺一揆が木澤軍に援軍を出したことにより畠山軍は敗れた。この時、石川道場に於いて殉死す。
★ 楠長國
生没年未詳。楠種長の男。江州真鍋島に漂泊す。貞治5年(1366年)足利義満に出仕する。伊予真鍋氏に続く。詳しくは「まなべさんちのルーツ」に、系図は下記アドレスに
http://y-manabe-web.hp.infoseek.co.jp/niihama/niiham70.htm
長國 正忠 真鍋忠元 義忠 義直 義盛
忠直
元義 元家(伊予真鍋家祖)
★ 楠正儀
南北朝期の武将。楠正成の三男。左衛門尉・河内守・左馬頭・参議。兄正行の敗死後、楠一族を率いた。足利一族諸将間に内膏訌が起こるや、観応2年(1351年)足利直義対南朝の和議を斡旋したが失敗。翌年から足利方と京都争奪戦を反復して実施し、一時南朝の優勢に導く。貞治6年(1367年)両朝講和を図るが失敗。応安2年(1369年)北朝に降り、同6年南朝の天野行宮を攻めたが、永徳2年(1382年)再び南朝に帰る。

正儀

正勝──

柏原正眞 正秀── 公成 正虎── 正明 正親─ 正頼
正顯── 正重── 正重 正重── 正充 正忠 正具
 

    正理
 

    正威

正平── 和田朝成 政高── 正直 成晴── 正光 楠正俊 正長 俊戒
正元
正長
正則── 則綱── 久明── 長久 則岡久榮 貞久 久宗
正秀── 正盛
津田正信
★ 楠正勝
生没年未詳。楠正儀の長男。父祖伝来の志を継いで心身を旧南朝に捧げ、王事に尽瘁した。一説には天授5年(1379年)に出家し、傑堂能勝と称したとされる。しかし、元中7年(1390年)には楠正儀没後、右馬頭として、楠氏の棟梁として登場し、応永6年(1399年)11月に起こった応永の乱では大内義弘を助けて和泉国の堺で戦っている。17才の時、戦場でひざに敵の矢をうけてから、感ずるところがあって、25才の時に仏門に入る。後に越前の竜沢寺の梅山聞本禅師について、修行をつみ、40才の時、耕雲庵を建て、周囲に杉の木を沢山植えた。聞本禅師は、このことを聞いて、霊樹山(れいじゅさん)耕雲寺と改めるよう、伝えた。弟子には、石瀬の種月寺の南英謙宗、滝谷の慈光寺の謙窓慶字、上田の雲洞庵の虚廓長清など。
 耕雲寺
★ 楠正眞(柏原正眞)
生没年未詳。楠正勝の男。丹波国に住し、柏原と称す。
★ 柏原正虎
生没年未詳。丹波の管領となり福知山に居城す。
★ 楠正顯
生没年未詳。楠正勝の男。伊勢国鈴鹿郡鹿伏兎谷に住す。
★ 楠正忠
生没年未詳。楠正充の男。伊勢国楠村に住し、神戸具盛に仕える。
★ 楠正元
生没年未詳。楠正儀の次男。「桜雲記」によれば密かに入洛して将軍足利義満を討たんとするが、事前に露見して戮殺された。
★ 楠正長
楠正儀の三男。文中元年生まれ。母は交野三左衛門の女。僧の祐存に養育され、22歳の頃から観心寺で修行し、鳥羽の光明寺で台教を学ぶ。応永6年に四條畷の山麓に住み、その後、本願寺の巧如上人に帰依し、定願と号し、南巽近辺に定願寺を建てる。応仁2年卒す。
★ 楠正則
生没年未詳。楠正儀の男。河内三郎。畠山右衛門佐基國に仕える。
★ 楠則綱
生没年未詳。楠正則の男。文安2年(1445年)畠山氏が岩室城を築いた時に城中の政務を行う。
★ 楠久明
生没年未詳。楠則綱の男。左近将監。畠山尾張守政長に仕える。
★ 則岡久榮
生没年未詳。楠冶部少輔長久の男。伴左衛門尉、勘解由左衛門。畠山家に仕え、始めて則岡を氏とする。
★ 則岡久宗
生没年未詳。則岡勘解由左衛門貞久の男。甚兵衛。始め大和大納言羽柴秀長に仕え、後に紀州藩初代藩主徳川頼宣(南龍公)に仕えた。この時六十八地士となる。
正盛── 大饗盛信 盛宗 盛秀── 長成 成隆─ 楠正虎 楢村玄正
利正
成虎── 正右 長次 正長
正久── 元成
正任 正經
★ 楠正盛(大饗正盛)
生没年未詳。河内国の大饗村(大阪府南河内郡美原町大饗)に居を構え、大饗西法入道と称した。
★ 楠正虎(1520〜1596)
織田信長、豊臣秀吉の右筆。大饗成隆の男。長諳と号す。書を飯尾常房に学び、世尊寺流の当代一流の書家であった。文禄元年(1592年)朝鮮派兵に際して肥前国名護屋城に先発し記帳などにあたった。もと大饗氏と称したが、織田信長のとりなしで正親町天皇に願って楠正成ら楠氏の朝敵の勅免をうけ、楠氏に復命する。従四位上、河内守に任じられた。慶長元年(1596年)正月11日没す。

★ 楠玄正(楢村玄正)
楠正虎の男。従五位下、楢村監物と号す。後陽成院帝から宸筆色紙を賜る「コトシヨリ花咲初ル橘ノイカデ昔ノ香ニ匂フラン」。初め中納言宇喜多直家に仕えるが秀家の代で諫言用いられず退居す。徳川家康に召し出され備中において二千石賜る。

楢村玄正 之正 正房
正隆 正冬
正家 成家
正忠 正晴 重政 正遠 正興 正照 正久 正方 正賢 正晏
★ 和田正氏
楠一族の和田氏祖。詳細はわからないが、河内と和泉の間の久世村和田から姓をとったと思われる。

和田正氏

正元

               
某─ 某── 正堅 正季 季氏 内島為氏 雅氏 氏利 氏理── 氏行
氏輝 氏直 氏数 東常尭室
氏豊 氏房── 氏方── 氏恒 氏永
某─ 12 持義 持偕 持祥 持澄── 持寛 市村氏親
持賢 持堅 持祝
★ 内ヶ島為氏
足利将軍家奉公衆。後花園天皇の御代(1428〜64)信濃国松代住人楠氏の末葉なる内島将監為氏、足利義政将軍の命を奉じて白川に来たり、その威勢を振るい、村々を兼領し、寛正のはじめ、牧戸に城を築き住居、漸々村々の随従に依りて、後亦保木脇村帰雲山に城を築きて勢強く、小島郷はさら也、越中国砺波郡川上領をも押領せり、家臣には山下、尾神、川尻らの勇士ありて、破竹の勢いになりぬ」(「斐太後風土記」)
★ 内ヶ島氏理
飛騨国大野郡帰雲城主。天正13年(1585年)佐々成政の要請に応じて越中に出兵した。豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に侵入すると氏理の留守を守っていた川尻備中守が長近に与力したため、急ぎ帰国したが術なく長近に謝罪し帰城を許された。同年11月29日に大地震があり一瞬の内に城は埋没、洪水もあり内ヶ島氏は滅亡した。
 帰雲城跡
★ 和田持義
江戸初期の旗本。和田正氏の末孫で大石と称していたが持義のときに和田姓に復す。はじめ戸澤正誠に仕え、宝永3年(1706年)4月、徳川綱吉に召され、御廊下番となり、その後、享保元年(1716年)5月に小普請となる。宝暦2年(1752年)6月死去。

 楠正季
楠正成の弟。元弘元年(1331年)正成の挙兵後、終始兄と行動を共にし、倒幕軍の一員として活躍する。建武政権下においては、窪所、武者所の所衆構成員となる。延元3年5月、足利尊氏の東上を阻止しようと正成と兵庫湊川にて戦い、奮戦したが及ばず、正成と刺し違えて死す。死に際して正成に最後の一念を聞かれて、「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵を滅サバヤコソ存候ヘ」と答えたという(「太平記」)

正季

高家 某─ 正武─── 正種 正持 元政 玉林            
賢快
行忠
賢秀 秀氏 高正─── 高秀 正定 氏友 正安 正家 正要 国正
以天 正之 正光
助氏
某─ 某─ 甲斐荘正繁 8代 俊正 正治
★ 和田正武(和田正兄)
はじめは正兄と称する。和泉守。貞治年中(1362〜1368)秋病臥す。家臣中島左近、大井田源次郎に二男種子丸を出家させるべく託す。
★ 和田正種(中井左源太)
和泉守和田正武の二男。幼少の折、僧になるべく高野山に登る。隠密の身分のため家臣の姓を借り、中井左源太と称する。成長して、河内上郡野田宗湛の聟養子となる。応永年間(1394〜1428)、石川郡にて野伏のため死す。
★ 和田賢秀
南北朝時代の武将。通称新発意(しんぼち)。楠正季の子。楠正成の死後、総領楠正行を中心として勢力を回復していった楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、正行に従い常に参戦している。貞和4年(1347年)に紀伊国隅田一族を、また河内国八尾、藤井寺で細川顕氏や山名時氏を打ち破った。翌年正月、高師直と四条畷に戦い敗死した。かつて味方であった湯浅党の者に背後から討たれたという。時に二十歳前後という。
 
和田賢秀の墓(歯神さま)
★ 和田正家
戦国時代の武将。作州木立城城主。宇喜田秀家に属した。
★ 橘正治(甲斐荘正治)
河内国錦部郡烏帽子形城主。元亀年間(1570〜1572)、徳川家康の命により遠江浜松城に駐在。天正18年(1590年)小田原の役に参戦。慶長4年(1599年)8月死去。
 烏帽子形城跡
甲斐荘正治

正房

正述

正親 正永 正恒 正壽 正堅

正ム

正憲

正道 正傅 正光
      正敬 茂雅                
      正奥 長勝                
      正之                    
  某─

正良

正教

正峯

正雄

正方

正邦        

★ 橘正房
河内国錦部郡烏帽子形城主。橘正治の男。天正18年(1590年)小田原の役に父正治とともに参戦。慶長5年(1600年)関ヶ原の役、大坂の陣にも従軍し功績をあげ錦部郡二千石の旗本となる。

★ 橘正親
橘正房の孫。従五位下、飛騨守。慶安元年(1648年)6月、徳川家光にはじめて拝謁、承応3年(1654年)2月に小姓組に列し、寛文6年(1666年)に御使役に、翌年から但馬、丹波、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡等の巡視を行う。同12年に御勘定頭にすすむ。元禄3年(1690年)12月死去。

★ 甲斐庄正方
甲斐庄正雄の養子。馬場三左衛門信篤の男。宝暦5年(1755年)8月遺跡を継ぎ、評定所番となり後に支配勘定に転じ評定所留役の助を務める。度々、御勘定方として功ありて、天明4年には評定所留役御勘定組頭にすすむ。
★ 楠正頼(柏原正頼)
柏原正親の男。河内国に住し、国司の畠山家に仕える。
正頼 梶川正治
正武── 正宗 正冬
正之── 重之 正重 重安 成利
★ 楠重之
楠正之の男。母は橘以継の女。天正3年(1575年)父が長篠の戦いで討死した時、母と三河国足助城へ移り鈴木重晴の元に属する。(あきんどさんから情報提供いただきました)
★ 楠正重
楠重之の男。母は三河国二村城主二村因幡守橘高豊の女。和田正重と名乗り富田村に居住する。
★ 梶川正治
河内国没落時に美濃国に住み池尻氏に数年出仕する。尾張織田家織田氏族の梶川信時(政盛)は正治が勇材と聞き、家督を譲る。

梶川正治

正継

正厚

           
 

 

正教──

正基

       
 

 

正景

正俊

尚正──

正一

 

   

正三

 

正矩

竹松丸

    尚盛── 盛政 成政
 

正信

池尻正繁

正相

水野正武

   
 

 

正包──

正作

邑政──

直張

 

正世

金八郎

 

 

正秀

     

弥右衛門

 

勘兵衛─

弥一郎

 

貞政

   

正義

正隆

   
             

正形

   
             

正胤

   
★ 梶川正継
梶川正治の男。尾張犬山城主。桶狭間の合戦の時、南中島塞を守る。
★ 梶川正教
梶川正継の男。織田信長に仕える。足利義昭が槙島に據った時、宇治川先陣を務め感状及び馬(生喰勝号)を賜る。後に豊臣秀吉に仕える。
★ 梶川正信
梶川正治の男。織田信秀に仕える。
★ 梶川正作(宮野正作)
梶川正包の男。長谷川秀一に仕える。秀一の老臣宮野新助の養子となり宮野氏を継ぐ。後に池田氏に仕える。
★ 梶川正世
梶川正治の男。織田信長に仕え、天正7年(1579年)伊丹城攻めの際、戦死。
★ 楠正長
楠長次の男。讃岐高松藩主松平頼重、頼保に仕える。寛文2年(1662年)河内国から讃岐国高松藩主松平頼重に招聘され、高松藩士に列せられる。
(あきんどさんから情報提供いただきました)
正長 正明 正置 正安 成始 正直 正信 直吉 正一 正徳
★ 楠正具
楠正忠の男。妻は伊勢神宮御師の橘義興の女。北畠具教に仕え、永禄12年(1569年)本願寺において剃髪し顕如上人の法弟となる。天正4年(1576年)本願寺において石山合戦で戦い、戦死する。

正具

橘正實

正友 正利 正直 正興 正興 興久 興信 興長

興忠

       
 

盛信

興英──

興徳

興宗
  柳沼正賢 正朝

山下興吉

正秀
正清
氏具
★ 橘正實(楠正實)
楠正具の男。伊勢神宮御師の橘義興の男である橘季家の養子となる。従四位下。朝田彦太夫と称す。伊勢神宮祈祷祠官。
★ 楠盛信
楠正具の養子。天正12年(1584年)峯城から落ち延び美濃国へ下る。加賀井合戦においおて戦い、生捕られ刑刎す。
★ 柳沼正賢(楠正賢)
楠正具の男。父正具が織田信長に敗れたことで、陸奥国に移り白河の常瑞寺にとどまり白河晴綱の家臣となる。その後白河を去り和田城主須田美濃守の客将となり、元亀2年二階堂氏に認められて堤村の柳沼館主となり柳沼氏を称した。須賀川城に籠城し、正賢の嫡男正朝と次男正秀は籠城戦で戦死し、正賢は落城後三男正清、四男氏具を伴って常陸に落ち、大乗院が須賀川に帰ったときに守屋館に居住して院に仕えた。
★ 柳沼正清
柳沼正賢の三男。二階堂氏家臣。須賀川城の籠城戦に参加、落ち延びて秋田久保田藩に仕え二百石を与えられた。
★ 柳沼氏具
柳沼正賢の四男。二階堂氏家臣。須賀川城の籠城戦に参加、会津の蒲生秀行から慶長8年(1603年)召し出されて竜崎乙字ヶ滝の瀑布奉行を命じられ三十石を与えられた。
★ 山下興吉
橘興長の男。山下旦友の養子となる。
★ 服部元成妻
楠正成の妹。伊賀の土豪上島元成に嫁ぐ。上島元成は伊賀忍者の家系である服部家を継ぐ。子は観阿弥。

服部元成妻

観阿弥

世阿弥 観世元雅 (観世家)
★ 観阿弥
南北朝時代の能役者・能作者。服部三郎清次。芸名、観世。法名、観阿弥陀仏。世阿弥の父。母は楠正成の妹。父は伊賀の上島元成(後に服部家を継ぐ)。猿楽大和四座の一つ結崎(ユウザキ)座(のちの観世座)の始祖とされるが、これを疑問視する説もある。足利義満の後援を得て能の質的向上をはかった。近江猿楽や田楽の長所を摂取して幽玄な芸風をうち出し、曲舞(クセマイ)を取り入れて謡を改革した。作品「自然居士」「卒都婆小町」など。
★ 世阿弥(観世元清)
室町時代の能楽師・謡曲作者。観世流の創始者観阿弥の子。父とともに足利義満の保護を受け,能の大成につくした。22歳で父と死別して観世座の跡を継ぐが,それまでの能に歌舞の要素を加えて幽玄美をめざす能を完成させた。作品は『高砂』『敦盛』『羽衣』『砧』『葵の上』など多数。能楽論も多いがなかでも『風姿花伝』は名高い。老後はめぐまれず、73歳で佐渡島に流され数年間の配流の生活を送った。
★ 津田正信
河内国交野郡津田城主。周防守。摂津守当麻武信の男。正儀の養子となり河内国交野郡津田に居住する。
津田正信 某── 楠正蔭 正俊─── 正孝 明算 照算
甲斐庄正隆 算長 算正 重長
  楠正澄 算行
★ 津田算長 (1499〜1568)
監物、等長。津田正孝の長男。紀州那賀郡小倉荘領主。鉄炮を本土に持ち込んだ人物。監物とは十二代将軍義晴に鉄炮を献上し小監物に任ぜられたからと言う。実戦に使用できる鉄炮の存在を知り種子島へ渡ったというが、一説に密貿易の途中難破し種子島に漂着、種子島時堯の娘を娶り鉄炮術を修得。天文13年(1544年)3月15日、鉄炮と砲術を紀州に持ち帰る。根来坂本村に住んで、鍛冶芝辻清右衛門妙西に鉄炮製作を命じ翌年には紀州第一号の鉄炮が誕生した。津田流砲術を創始。永禄11年(1568年)12月22日、69歳で没す。
★ 津田明算
監物、杉之坊。津田算長の弟。根来衆を鉄砲集団として組織化する。根来鉄炮衆頭領。永禄元(1558)年に歿する。
★ 津田照算(自由斎)
津田算長の次男。砲術自由斎流の祖。津田明算の養子となり、根来鉄炮衆頭領を引き継ぐ。小牧・長久手合戦では徳川に味方し秀吉の怒りを買う。そのため翌年天正13年(1585年)3月21日、秀吉の紀州征伐の際、増田長盛の軍勢と戦い討死する
★ 楠正資
生没年未詳。南北朝期の武士。楠正資の男。數原氏家祖。楠正行に従い戦う。その後武者修行で三河国へ移るが、最後は近江国へ住す。

正資

數原正安

正宗

正信 正弘 正佐 正忠 正景 正保 正常 正安

 

正休

★ 數原正信
生年未詳。室町時代の武士。數原正宗の男。近江国に住し、近江佐々木氏に従う。応永7年(1400年)12月10日卒す。
★ 數原正保
生没年未詳。戦国期の武士。數原正景の男。最初近江国に住し、近江佐々木氏に従っていたが、尾張国に移り織田家に仕える。
★ 數原正安
生没年未詳。戦国期の武士。數原正常の男。織田信長、信孝に仕える。織田家滅亡後、徳川家へ仕える。

正安

宗和

宗利 宗達 尚白 白英 元國

 

元善 元香 元俊 玄乙 元晴
★ 數原宗和
天正18年(1590年)生まれ。江戸時代の医家。清菴法印。水戸威公に仕える。正保4年(1647年)徳川家光に召され奥医となる。萬治2年(1659年)没す。
★ 楠俊親
生没年未詳。楠正成の兄。小太郎。早世する。

俊親

杉本貞隆

貞俊 俊胤 諸正 正胤 委正
★ 杉本貞隆
生没年未詳。楠正成の兄・小太郎俊親の子。右衛門尉。丹波杉本に住し杉本殿と呼ばれる。橘流杉本氏家祖。
★ 杉本貞俊
生年未詳。貞隆の男。左兵衛尉。楠木の泣男として太平記に登場す。貞和4年(1348年)楠正行に従いて四条畷合戦にて戦死する。
★ 杉本委正
生没年未詳。修験、圓乗坊法印。永禄6年(1563年)、若狭に住す。
委正 信貴 盛長 良海 専海 委海 良範 喜善 祖泉 委道
賢秀 良快 専海 全休
★ 杉本信貴
生年未詳。修験。若狭小浜杉本院。以後、代々小浜に住し修験道を続ける。
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